酒を浴び笑ってばかりの国
大人になった僕は酒を飲んだ。
子供の頃何故こんなものを…?と感じていた。酒という魔物に僕は見事に虜になった。
酒
本当に不思議な魔物だ。
僕は、オッサンが好きじゃない。
それは嫌いな会社の上司であり、疲れている町の象徴でもあるから。
でも、僕はオッサンが大好きでもある。
そんな町の何かはそんな疲れたオッサンなしには成り立たないし、僕の好きな父親はオッサンだからだ。
相反する言葉を並べたが、良くも悪くもオッサンという生き物がとる一つ一つの行動は、若い人に感染する。
オッサンがため息をつくと、なんだかため息って大人っぽいなぁと子供は思う(かもしれない)し、オッサンが愚痴をこぼせばそれが大人のアジなのだなぁと感じる(かもしれない。)
そして、オッサンが汚い居酒屋でガハハガハハと笑いながら酒を飲む
すると僕みたいな、ガキにとってそれはとても魅力的なことなんだなぁと思えてしまう。
1日をボロボロになるまで頑張った彼らと、そんな彼らの長年の癒しの場であった赤提灯の居酒屋さん。
壁は煤けているし、匂いだって汗と煙草が入り混じったすえた臭いが充満している。
でも、僕はそんな空間が好きだ。
僕はそこで、仲間とガハハガハハと笑い合う。品のないことを口にして笑い合う。
帰り道寒空の下、フラフラになりながら歩く夜道で聴く音楽は自分を大人にさせてくれている(気がする)
僕はきっと大人になっている
なりたくなかったオッサンに着々と近づいている。
なぜなら
酒飲んで笑う
こんな単純でしょうもない事が
今では
めちゃくちゃ楽しいことなんだもの。
僕らのあたりまえが変わっていく。
「僕たちのあたりまえが変わっていく。」
インターネットが誕生して、スマートフォンが生まれたのと同じように、今年は今までに想像しえなかったものが当たり前になっていく年なのではないかと強く実感している。
例えばそれは仮想通貨だったり、宅配ボックスだったり、あるいはそれは浅学な自分では想像もしえない別のものかもしれない。
「何もないところに道は生まれない。歩く人が多くなれば、そこは道になるのだ。」
魯迅のセリフだが、この時代にはそこに道を作る人、つまり何もないところを開拓する人が次々と現れている印象だ。それはとてもありがたいことだ。
そしてもう一つありがたいことに、そうした開拓者の勇姿を僕らは認識しやすい時代に生きていると思う。
僕の好きなもの(主にはファッションやカルチャーだが)に限ってもここ数年で大きく変化してきた。
例えばアニメ
今でもアニメ制作会社の売り上げのメインにBlu-ray(所謂円盤)の売り上げというものがある。数年前、平成生まれの僕にとっては間違いなくアニメカルチャーの最盛期があった。(けいおん!や涼宮ハルヒ、まどマギ、Fateシリーズ、SAOなど)とてもいい時代だった。クールの終わりころになるとネットにはセルラン推移を見守るスレが盛り上がったりしたものだった。学生だった僕は2,3話しか収録されていない円盤をほいほい買うお金はなかったものの、オタクたちの「あーでもないこーでもない」という議論を楽しく眺めていた。
今でもそんな議論は、もちろんある。ただ今そのシステムそのものが大きく見直されている。
いうまでもなく、Netflixをはじめとする定額ストリーミング型サービスだ。
15年に国内でサービスが開始し、登録者数数千万人といるサービスなので特にここで触れる必要はないと思う。年末に秋葉原のヨドバシカメラを訪れたときテレビコーナーで最新型のテレビを物色していた時にいくつかの新型テレビのリモコンにはもれなくNetflixボタンが搭載されていたのには本当に驚いた。「この液晶を買う人はNetflixを登録していて当然だ。」とメーカー側が認識しているというのはすごいなと思ったし、「僕らのあたりまえが変わったんだ。」と強く実感した場面だった。
話は脱線したが、「円盤が売れない」といった嘆き、そしてそれによる製作者の労働現場の劣悪さが叫ばれて久しいが、視聴者がこうした膨大なライブラリーに一定金額を収めるという行動が定着することでアニメ業界の資金繰りや作品制作のかじ取りが大きく変化していくのではないか。
一説によれば、「結局現場の人間が得ている金額は変わらない」等の声は多く聞くがそれでも変化するのは「良い」ことだと思う。既存のシステムが低い位置にいるのならば、Netflixという黒船の襲来を機に日本アニメ業界の未来を明るく切り開いていってほしいと思う。
「何もないところに道は生まれない。歩く人が多くなれば、そこは道になるのだ。」
僕らのあたりまえは変わっていく
僕は浅学な人間なので自分の好きな分野でしかものを語ることはできないが、その小さな枠組みの中でも本当に昨年今年と大きな変化の兆しを感じる。
次の記事ではファッションに関しての「あたりまえ」に変わりつつあることを記していきたい。
所感
年始の所感
「誰にも聞かれていない話を延々と続ける。」
これほど切ないこともないだろう。
だから、僕はこれから綴る言葉が、いつか誰かの目に触れて貰えればという思いで綴る。「うわぁこいつこんな臭いこと言っているよ」「へぇー昔こんな事を考えていたんだ。」「今の彼の源流のようなものはこんな感じの所から湧き出ていたのか」
いつになるか、誰がそう思うか、分からないけれど、そう思う人が一人でも多くいてくれたらと僕は強く思う。きっと文字書きと言うのはそういう性質の生き物なんだと思う。
前置きが長くなったが、
2018年を変化の年にしたい。
「何者でもない何者かになりたい人間」と言うのは年始の所感にこう言った戯言を言いがちだ。
そう言ったたわいもないジレンマに苦悩をしてきた。だけれどもそれでいいと思う。
現に僕は何者でもないのだから。
僕の源流はここにある。
暑く煮えたぎる、一滴たりとも無駄にできない。2018年、94年生まれの僕の23年間全ての雫を全身に通わせて文字を綴りたい。小さくて、中指が不恰好に折れ曲がったこの指で、何も詰まってないのであろう小さな頭で僕は一生懸命文字を綴る。
そう、僕は表現者でありたい。
今まで見ていたばかりの23年間だった。一丁前なフリをした。スカしている事こそが僕だった。お洒落をした。そしてダサい奴らを馬鹿にした。頭の中で嘲笑った。そしてそんな自分に心の底から涙した。
今年は違う年に。
嘲笑われること。
貶されること。
結構。
するべきことはしよう。
僕には何もない。全部がダメだ。
中途半端
ではなく、駄目だ。
「寝る間を惜しんで」
夢中になったものなどない。
ただ一つ、
色んな物思いに耽ること。
それは形を為さない、色をつけることもできない。
だったらそれを言葉にしよう。
文字や言葉だけが、僕の大切なものだ。
形にすることで苦しむし、絶望するかもしれない。挫折をするかもしれない。ただ、僕は今それすら経験したことない未熟な子供だ。23歳の未熟な子供だ。
寝る間を惜しんで書く。
書いたものの色が、重くのしかかりそうなグレーかもしれない。
書いたものの形は、誰かの心臓をえぐる鋭利な刃になるかもしれない。
それでも僕は書きたい。
今綴ったこの言葉すら、惨めで拙く情けないと思う。消したいと思う。才能があると思い込んでいる自分が否定されていく。
惨めな源流だ。
それでも僕は表現者でありたい。
今年がそんなきっかけであるように、今日の自分が見て驚くような自分であれよと強く願う。し、なる。
皆さん、よろしくお願いします。
自分、よろしくお願いします。
悲しみよこんにちは
フランソワーズサガンだね。
秋だ。
コーディロイを着たくなる季節
タバコスエードのブーツを履きたくなる季節
秋の早朝
窓を開けると神聖な空気が部屋に差し込む
タバコが、本当に美味しい。
ひんやりとした空気の中を泳ぐタバコの煙やコーヒーの湯気の幻想っぷりったらない。
昼、馬肥ゆる秋の天高い空を見上げる。
クールビズ期間を終えた僕らサラリーマンはクローゼットから出した、ジャケットを羽織り街を行く
肩凝りがーとか言ってジャケットを着たがらない中年リーマンもこんな日にはジャケットを着たいものなんだろう。
ああ、世界は美しい。
夕刻、黄昏時
昼とも夜とも言えない、行き場のない時間
秋の黄昏時
パークアベニュー
セントラルパーク
上野公園
だんだん何が言いたいのかわからなくなってきた
ただただよくわからない虚しさが私を襲い、言葉を書き連ねるよう脅迫する夜
ウイスキーを飲みすぎたのかな
ああ虚しい
満族に言葉すら綴れない、
自分の膝にキスをしよう
座椅子かなんかに座ってね、自分の膝にキスをしよう。
丸くて、硬くて、広い
自分の膝にキスをしよう。
ただひたすらに虚しくなれるよ。
三連休が終わるねぇ。
街に出たの?
家にいたの?
女と寝たの?
僕は、街に出たよ。スーツを買ったんだ。
家にいたよ、革靴を磨いたんだ。
どうでもいいけど革靴っていうのは最高だね、ブラシをかけて、リムーバーで汚れを落として、クリームで栄養を与えて、またブラッシングをするだけで
週末とは別物の顔を見せてくれるんだ
週末に疲れ果てた自分と
週明けの自分の顔は、心はどれだけリフレッシュされているのだろうか。
きっと答えは風の中にあるのだろう。
明日の風と明日の太陽に
期待を寄せながら
僕はハイボールを飲んでいます。
もう6杯目だ、明日が怖いね。
風立ちぬ 今は秋
幼稚園生の頃
そのくらいの歳の子が皆そうであるように、僕は季節というものが月が変わると同時に正確に、定規で線引きしたように変化していくものだと思っていた。
6月が終わった次の日からは
雨が全く降らない。
8月が終わったら
次の日からは外では落ち葉が舞っている。
そんな感じだ。
誰しもが通る錯覚だ。
当たり前だが現実は、全く異なる。
7月の後半になって梅雨明けする年もあれば
9月の終わりに真夏日なんてのは最近では当たり前だ。
僕たちはそういった出来事に慣れていきながら大人になっていく。
「ああ、もうそろそろ秋だなぁ。」
そんなことを肌感覚で覚えていく。
これは子供では出来ないことだ。
その昔、僕が小学生だった頃の9月1日の話だ。
久々のランドセルに、久々の学校に心の底からワクワクしながら僕は朝ご飯を食べていた。
ママが作る世界で一番豊かな朝食だ。
ふと、見た朝の情報番組のお天気コーナーのお姉さんのセリフが今でも頭にこびりついて離れない。
「本日の東京天気は晴れ。降水確率0パーセント。最高気温は30度です。まだまだ暑い日が続きますが、湿度は低くカラッとした秋の始まりを予感させる日になるでしょう。」
僕は「30度もあるけど秋らしいってどんなだろう」と思ったのを記憶している。
30度台と20度台はそのときの僕にとって季節の住み分けを為す重要な指標だった。
玄関で靴を履き、マンションのガラス扉を開け僕はその言葉の意味を一瞬で理解した。
目の前に広がる大きくて高い雲ひとつない青空、そして顔中に吹き付けたカラッとした心地いい風。
確かに気温はそこそこある、暑い。だけど決していやらしい暑さではない。
カラッとしている。
大人が使うそういう言葉の意味をやっと理解できた。
少しだけ、大人になれた気がしてとっても幸せな9月1日だった。
そんな9月1日が、確かにあった。
もう昔の話さ。
でも僕は今でも9月1日を迎える度にあのときのお天気お姉さんの言葉を思い出す。
本日の東京天気は晴れ。降水確率0パーセント。最高気温は30度です。まだまだ暑い日が続きますが、湿度は低くカラッとした秋の始まりを予感させる日になるでしょう。
今年の9月1日も、そうあってほしいなと。
9月1日に自殺する子供が多いらしい。
そんな事をSNSやラジオで耳にした。
せめてそんな彼等には季節の可憐さを知ってからでも、遅くないよと言ってあげたい。
季節を感じながら物思いに耽ること。
季節を感じながら食事やお酒を選ぶこと
季節を感じながらデートプランを考えること。
そして好きな季節一個でいいから見つけてほしい。
季節は君をほんの少しだけ大人にすると思うから。
Good Luck Charm
年に数日あるかないかの心地の良い夜がある。
カラッとした優しげな風が身体を包む晩夏の夜はすぐそこにある秋の到来を予感させる。
僕は晩夏の夜が本当に好きだ。
秋の夜も大好きだ。
秋の夜長という枕詞がつくだけで大抵のモノは美しくみえてしまう。
そんな秋の夜長を世間の人はどのようにして過ごしているのだろうか。
セックス?いいね。
晩酌?飲むならウィスキーできまりだな。
読書?もってこいだ
そんな秋の入り口の夜
大勢の人に夏の終わりの切なさと新たな季節の訪れを告げる一年で一番センチな夜
僕は車のエアコンを切る。
窓を開ける
流す音楽は良き時代のアメリカ
Elvis Presley "Good Luck Charm"
I want a good luck charm a-hangin' on my arm
To nave, to have, to hold, to hold tonight
僕にとっての"幸運のお守り"とはなんだろう。
そんなことを考える夜もいいよね?
秋の"夜長"はこれからさ。
、んん